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[[ファイル:太宰治.jpg|サムネイル|昭和23年2月撮影。|150px]]
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'''太宰 治'''(だざい おさむ、1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家。[[森鴎外]]の最大のライバルとして知られる。本名は'''津島 修治'''(つしま しゅうじ)。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』『斜陽』がある。戦後は新戯作派、無頼派などと称された。
'''太宰治'''とは、[[森鴎外]]のライバルである。
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==生涯==
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==幼年〜学生時代==
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青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれる。1916年に金木第一尋常小学校に入学。津島家の子どもたちは父が地元の名士であったため実際の成績に関係なく「甲」の評価がつけられていたが、太宰は実際の成績も優秀で、開校以来の秀才と言われていた。卒業後、1年間の高等小学校通いを経て、青森県立弘前中学校に入学。下宿生活を送る。ここでも成績は優秀であった。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読。特に芥川龍之介の大ファンであり、芥川の名前や似顔絵が書かれたノートも発見されている。在学中に習作「最後の太閤」を書き、また同人誌『蜃気楼』を発行。小説家を志望するようになる。
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1927年旧制弘前高等学校文化甲類に入学。帰省中に芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受ける。この事件を境にしだいに学業をおろそかにするようになる。代わりにしばしば足を運ぶようになった花柳町で、9月、青森の芸妓紅子(本名、小山初代)と知り合う。
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1928年、同人誌『細胞文芸』を発行、辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するも、1回で終了。同人誌関連の知人から影響を受け、校内でも左翼運動を展開する。1929年、同盟休校事件をモデルにした『学生群』を改造社の懸賞に応募するが落選。同年12月10日にカルモチン自殺を図り、母の付き添いで大鰐温泉で翌年1月7日まで静養した。自殺未遂の理由について太宰は、「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役の方であった。」と、自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高により弘前高等学校の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得て自殺未遂で逮捕を逃れたという説もある。
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1930年、高等学校を卒業。東京大学仏文科に入学。例年仏文科は不人気のため無試験であり、それを期待しての出願でもあったが、1930年は偶然仏文科でも試験があった。フランス語を知らなかった太宰は他の出願者とともに試験場で手を上げ、試験官に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。
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無事入学を果たし、本郷に下宿した太宰であったが、講義にはついていけなかった。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、以前知り合っていた初代が太宰の手引きで上京。津島家は芸者との結婚に反対するが、長兄文治が分家などを条件に認め、初代は落籍のため一時帰郷。除籍10日後の11月、銀座のカフェに勤める田辺あつみ(本名:田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸でカルモチン心中を図り、女は死亡。自殺幇助罪は文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。この年の暮れに初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。翌年2月、初代と品川区で新所帯を持つ。
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1932年、小説家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。7月、青森署に出頭し、左翼活動から離脱。
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==創作活動の本格化==
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1933年、初めて「太宰治」の筆名を用いて『列車』を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加、檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊するが中原中也らと争い1年で休刊。
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1934年4月、「葉」を『鷭』に発表。
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1935年3月、大学5年目となって危機感を覚え、都新聞の入社試験応募するが失敗。鎌倉で縊死を図るが未遂。5月、「道化の華」を『日本浪漫派』に発表。これを高く評価した佐藤春夫に以後師事するようになる。7月、船橋に転居。8月、『文藝』発表の「逆行」が第一回芥川賞候補となるが、次席でおわる。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。9月、大学を除籍される。
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1936年6月、最初の創作集『晩年』刊行。8月、第三回芥川賞に落選する(過去に候補に入った作家は外す規定のため)。10月、前年の盲腸炎手術後のパビナール中毒治療のため江古田の東京武蔵野病院に強制入院。11月に退院するが、翌年3月、妻初代と津島家の親類・小館善四郎との不貞を苦にし、谷川温泉で心中未遂。6月、初代と離別。
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==結婚、作家活動==
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1938年9月、井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。甲府の石原美知子と見合いをし、11月、婚約する。翌年1月、井伏家で石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。2月と3月に「富嶽百景」を『文体』に発表。9月、東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居し、終生の住まいとなる。この頃精神的に最も安定し、1940年にかけて「女生徒」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの明るくかつ優れた短編を発表した。「鷗」「善蔵を思う」「乞食学生」「きりぎりす」など、三鷹での生活を素材にした作品群も雑誌掲載している。12月、創作集『女生徒』により北村透谷賞副賞を受ける。
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1941年1月、「東京八景」を『文學界』に発表する。6月、長女園子誕生。9月、太田静子が友人と共に初めて三鷹の太宰の家を訪問する。11月、文士徴用を受けたが、肺湿潤と診断され徴用免除。書き下ろし『新ハムレット』刊行。
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1942年2月、前年暮の太平洋戦争勃発を、三鷹に住む主婦の日記に仮託して書いた「十二月八日」を『婦人公論』に発表。10月、初めて妻と長女を伴い帰郷し、母を見舞い数日間滞在する。12月、母逝去。単身帰郷した。戦中も短篇集『風の便り』、創作集『女性』、歴史小説『右大臣実朝』、創作集『佳日』、『津軽』、『惜別』、『お伽草子』など、旺盛な創作活動を行う。空襲による三鷹の家の破損、自身の疎開先の石原家の全焼などを生き延び、妻子とともに疎開した津軽の生家で敗戦を迎えた。
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==戦後==
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1946年1月、戦後に失望して、前年10月より『河北新報』に連載の「パンドラの匣」は途中で取りやめる。4月、「十五年間」を『文化展望』に発表。6月、『パンドラの匣』刊行。(7月、祖母イシ逝去。)11月、疎開生活を終えて、妻子と共に三鷹の自宅に帰る。来客多く、三鷹駅近くに仕事部屋を借りる。12月、「冬の花火」が、マッカーサー司令部の意向により中止される。
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1947年1月、太田静子の訪問を受け、2月に静子を訪ねて日記を借り受ける。田中英光の疎開先、伊豆の三津浜で、「斜陽」を起稿する。3月、次女里子誕生。この頃、三鷹駅前の屋台で山崎富栄と知り合う。4月、新たな仕事部屋で「斜陽」を書き継ぎ、6月、脱稿、『新潮』に連載。8月、体調を崩し家にこもる。この頃仕事部屋を転々とする。11月、太田静子との間に、治子誕生。12月に『斜陽』が単行本として刊行。ベストセラーとなり、没落階級を意味する「斜陽族」が流行語となるなどし、流行作家となる。
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==死==
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1948年1月上旬、喀血する。3月頃から富栄が付き添って栄養剤を注射しながら「人間失格」を執筆する。富栄は手際が良く、太宰の秘書兼愛人的な存在となっていた。一方、『新潮』連載の「如是我聞」では、志賀直哉らを痛烈に批判。5月、「桜桃」を『世界』に発表。6月から「人間失格」を『展望』に掲載、 8月まで続く。6月13日夜半、「グッド・バイ」(未完絶筆)の草稿、遺書数通などを机辺に残し、山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じる。6日後の19日、奇しくも太宰の誕生日に二人の遺体が発見される。当時は無理心中説など様々な憶測が流れたが、50回忌目前の1998年に遺族らが遺書を公開。自殺の動機を「小説を書くのがいやになつたから」と説明しており、毛筆で清書、署名もあった。これにより、それまで遺書とされてきたものは下書きだったことが明らかになった。
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1948年6月21日、葬儀委員長、豊島与志雄、副委員長、井伏鱒二により自宅にて告別式。7月、三鷹の禅林寺に葬られる。法名は「文綵院大猷治通居士」。翌年6月、禅林寺の森鷗外の墓近くに太宰治の墓碑を建立。12日、津島家により一周忌が営まれる。遺体発見日の6月19日は、生前交流のあった今官一により、「桜桃忌」と命名され、以後太宰を偲ぶ集会が、禅林寺で営まれるようになる。
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生家は旅館「斜陽館」として残されていたが、のちに金木町(現、五所川原市)が買い取り、1998年(平成10)に太宰治記念館「斜陽館」として開館した。
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==

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太宰 治(だざい おさむ、1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家。森鴎外の最大のライバルとして知られる。本名は津島 修治(つしま しゅうじ)。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』『斜陽』がある。戦後は新戯作派、無頼派などと称された。

生涯

幼年〜学生時代

青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれる。1916年に金木第一尋常小学校に入学。津島家の子どもたちは父が地元の名士であったため実際の成績に関係なく「甲」の評価がつけられていたが、太宰は実際の成績も優秀で、開校以来の秀才と言われていた。卒業後、1年間の高等小学校通いを経て、青森県立弘前中学校に入学。下宿生活を送る。ここでも成績は優秀であった。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読。特に芥川龍之介の大ファンであり、芥川の名前や似顔絵が書かれたノートも発見されている。在学中に習作「最後の太閤」を書き、また同人誌『蜃気楼』を発行。小説家を志望するようになる。

1927年旧制弘前高等学校文化甲類に入学。帰省中に芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受ける。この事件を境にしだいに学業をおろそかにするようになる。代わりにしばしば足を運ぶようになった花柳町で、9月、青森の芸妓紅子(本名、小山初代)と知り合う。

1928年、同人誌『細胞文芸』を発行、辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するも、1回で終了。同人誌関連の知人から影響を受け、校内でも左翼運動を展開する。1929年、同盟休校事件をモデルにした『学生群』を改造社の懸賞に応募するが落選。同年12月10日にカルモチン自殺を図り、母の付き添いで大鰐温泉で翌年1月7日まで静養した。自殺未遂の理由について太宰は、「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役の方であった。」と、自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高により弘前高等学校の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得て自殺未遂で逮捕を逃れたという説もある。

1930年、高等学校を卒業。東京大学仏文科に入学。例年仏文科は不人気のため無試験であり、それを期待しての出願でもあったが、1930年は偶然仏文科でも試験があった。フランス語を知らなかった太宰は他の出願者とともに試験場で手を上げ、試験官に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。

無事入学を果たし、本郷に下宿した太宰であったが、講義にはついていけなかった。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、以前知り合っていた初代が太宰の手引きで上京。津島家は芸者との結婚に反対するが、長兄文治が分家などを条件に認め、初代は落籍のため一時帰郷。除籍10日後の11月、銀座のカフェに勤める田辺あつみ(本名:田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸でカルモチン心中を図り、女は死亡。自殺幇助罪は文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。この年の暮れに初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。翌年2月、初代と品川区で新所帯を持つ。

1932年、小説家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。7月、青森署に出頭し、左翼活動から離脱。

創作活動の本格化

1933年、初めて「太宰治」の筆名を用いて『列車』を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加、檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊するが中原中也らと争い1年で休刊。

1934年4月、「葉」を『鷭』に発表。

1935年3月、大学5年目となって危機感を覚え、都新聞の入社試験応募するが失敗。鎌倉で縊死を図るが未遂。5月、「道化の華」を『日本浪漫派』に発表。これを高く評価した佐藤春夫に以後師事するようになる。7月、船橋に転居。8月、『文藝』発表の「逆行」が第一回芥川賞候補となるが、次席でおわる。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。9月、大学を除籍される。

1936年6月、最初の創作集『晩年』刊行。8月、第三回芥川賞に落選する(過去に候補に入った作家は外す規定のため)。10月、前年の盲腸炎手術後のパビナール中毒治療のため江古田の東京武蔵野病院に強制入院。11月に退院するが、翌年3月、妻初代と津島家の親類・小館善四郎との不貞を苦にし、谷川温泉で心中未遂。6月、初代と離別。

結婚、作家活動

1938年9月、井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。甲府の石原美知子と見合いをし、11月、婚約する。翌年1月、井伏家で石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。2月と3月に「富嶽百景」を『文体』に発表。9月、東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居し、終生の住まいとなる。この頃精神的に最も安定し、1940年にかけて「女生徒」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの明るくかつ優れた短編を発表した。「鷗」「善蔵を思う」「乞食学生」「きりぎりす」など、三鷹での生活を素材にした作品群も雑誌掲載している。12月、創作集『女生徒』により北村透谷賞副賞を受ける。

1941年1月、「東京八景」を『文學界』に発表する。6月、長女園子誕生。9月、太田静子が友人と共に初めて三鷹の太宰の家を訪問する。11月、文士徴用を受けたが、肺湿潤と診断され徴用免除。書き下ろし『新ハムレット』刊行。

1942年2月、前年暮の太平洋戦争勃発を、三鷹に住む主婦の日記に仮託して書いた「十二月八日」を『婦人公論』に発表。10月、初めて妻と長女を伴い帰郷し、母を見舞い数日間滞在する。12月、母逝去。単身帰郷した。戦中も短篇集『風の便り』、創作集『女性』、歴史小説『右大臣実朝』、創作集『佳日』、『津軽』、『惜別』、『お伽草子』など、旺盛な創作活動を行う。空襲による三鷹の家の破損、自身の疎開先の石原家の全焼などを生き延び、妻子とともに疎開した津軽の生家で敗戦を迎えた。

戦後

1946年1月、戦後に失望して、前年10月より『河北新報』に連載の「パンドラの匣」は途中で取りやめる。4月、「十五年間」を『文化展望』に発表。6月、『パンドラの匣』刊行。(7月、祖母イシ逝去。)11月、疎開生活を終えて、妻子と共に三鷹の自宅に帰る。来客多く、三鷹駅近くに仕事部屋を借りる。12月、「冬の花火」が、マッカーサー司令部の意向により中止される。

1947年1月、太田静子の訪問を受け、2月に静子を訪ねて日記を借り受ける。田中英光の疎開先、伊豆の三津浜で、「斜陽」を起稿する。3月、次女里子誕生。この頃、三鷹駅前の屋台で山崎富栄と知り合う。4月、新たな仕事部屋で「斜陽」を書き継ぎ、6月、脱稿、『新潮』に連載。8月、体調を崩し家にこもる。この頃仕事部屋を転々とする。11月、太田静子との間に、治子誕生。12月に『斜陽』が単行本として刊行。ベストセラーとなり、没落階級を意味する「斜陽族」が流行語となるなどし、流行作家となる。

1948年1月上旬、喀血する。3月頃から富栄が付き添って栄養剤を注射しながら「人間失格」を執筆する。富栄は手際が良く、太宰の秘書兼愛人的な存在となっていた。一方、『新潮』連載の「如是我聞」では、志賀直哉らを痛烈に批判。5月、「桜桃」を『世界』に発表。6月から「人間失格」を『展望』に掲載、 8月まで続く。6月13日夜半、「グッド・バイ」(未完絶筆)の草稿、遺書数通などを机辺に残し、山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じる。6日後の19日、奇しくも太宰の誕生日に二人の遺体が発見される。当時は無理心中説など様々な憶測が流れたが、50回忌目前の1998年に遺族らが遺書を公開。自殺の動機を「小説を書くのがいやになつたから」と説明しており、毛筆で清書、署名もあった。これにより、それまで遺書とされてきたものは下書きだったことが明らかになった。

1948年6月21日、葬儀委員長、豊島与志雄、副委員長、井伏鱒二により自宅にて告別式。7月、三鷹の禅林寺に葬られる。法名は「文綵院大猷治通居士」。翌年6月、禅林寺の森鷗外の墓近くに太宰治の墓碑を建立。12日、津島家により一周忌が営まれる。遺体発見日の6月19日は、生前交流のあった今官一により、「桜桃忌」と命名され、以後太宰を偲ぶ集会が、禅林寺で営まれるようになる。

生家は旅館「斜陽館」として残されていたが、のちに金木町(現、五所川原市)が買い取り、1998年(平成10)に太宰治記念館「斜陽館」として開館した。

関連項目